心をどう扱えばよいか~森田理論
心をどう扱えばよいか
だれしも今正しく判断して、確実な道を歩み生活している、
と思っている。しかしその生活のしかたでは、
知らない間に自分の気持ちにとらわれていて、
そのために感情生活のほうに引きずり込まれているのがわからない。
たとえ、それに気づいたとしても時はすでに遅く、
自分の感情なのに思いどおりになってくれないから、
どうやりくりしても悩みは増すばかりである。
こういう当たりまえで、どこも間違っていない精神生活が
森田神経質の心理そのもので、森田療法は特定の人びとだけに
通用する特殊な心の問題の治療法なのではなく、
自分について考える、いいかえれば向上心のある人なら、
どなたにも役立つ人生上の大きな課題を
解決する役割を荷っているといってよい。
それでは元より病気でもなんでもない所から出発しながら、
なぜある人びとだけが苦しい神経症性障害を引きおこすことに
なってしまうのであろうか。
聞けばその人特有の、ある時の事情が発端として語られる。
けれどもそれはかならずしも、抜きさしならぬ原因のように
見えていても、多くはきっかけにすぎないのである。
したがって気になり続けている悩みの本能は、
今自分が片時も手をゆるめずに解決にとりくんでいる
その姿勢そのものであって、そのなかに内容として
原因らしいことがらが物語として入っているだけなのである。
ふり返ってみれば自分の苦痛を何よりも先に
解決しようとするのは感情の自然であって、
じつにもっともなことではあるが、
困ったことに自己意識のなかは自分の心の問題なのに
うまくいかない。
しかもつねに不安がつきまとうから、一刻も放置できない感じがする。
ただもう方法のかぎりを尽くして人知れず早く治そうとして、
その努力は自分に対して手をゆるめようとしない。
その葛藤はますますひどくなり、軽くなる見通しは見出せない。
森田神経質の人は熱心である。
仕事に取り組めば他人に負けないであろう。
それがどうして症状には勝てないのであろうかと
不思議に思われるであろう。
しかしこの事実に対して森田療法ではそのまま受け入れて
克服しようとしないでよい。
それで瞬間的に全治するのである。
そこがじつに鮮やかで他に比類を見ない。
後から理論化すれば、人間のもつ知恵、
すなわち「考える力は精神の外部機構」であって、
自分の心の問題の解決は守備範囲外なのである。
今日の森田療法を見渡して、知性による理論学習で
治そうとする傾向が見られるのは、
その点から見ても、本療法の真髄をよく見きわめたもの
とはいい難いのである。
ところが、幸いなことに、
理論学習そのものは対象が自分以外のことなので、
立派な精神作業であるから、他者意識が明るさを増してくる。
こうなれば自己意識は暗くなるので早速の全治が実現する。
どこがいけなかったかというと、
その理論学習を治すための方法であるとしたことなのである。
それはあたかも全治の状態をだめにする「治そうとする自己意識」を
最終目標として掲げているため、
うまくいかないのである。自分のことはほっといて、
ひたすら理論学習の勉強に打ちこめば、
いや応なしに治らずにはおかない立派な
精神作業として生きてくるのであった。
こうして見れば、治そうとする自己意識内容は影をひそめて、
初めから他者意識だけの生活をすればよいことがわかってくる。
一般にいう「心の問題」とか「自分のこと」は、
みな自己意識をとり上げたものなので、
どう扱うかよりも、まったくとり合わないでよかったのである。
ここまで来ればあとは至って簡単である。
心とか自分というものを設定する必要がなくなったので、
自己中心性はおのずから消失し、
全治があるばかりの自然の風光のなかにあって
ただ働くばかりなのである。
森田も究極のところを「ただ働くだけです」と語ったという。
その優れた回答は、
ただちに外に向かって仕事を始めるという、
生きいきしたものであった。
著者 宇佐 晋一『心の講話と全治の道』発行所 株式会社秀和システム
精神保健福祉士・介護福祉士
伊藤 大宜