心に準備なし~森田理論
心に準備なし
神経質の人が不安にとらわれて、
はなはだ苦しむ症状の一つに乗り物恐怖がある。
新幹線の名古屋―東京間で心臓の不安発作を起こし、
静岡に臨時停車させて病院に行った人、
ヘリコプターの操縦士で、友人の事故死以来、
怖くなって飛べなくなった人(中略)
いずれも自分にとって万一の場合の死が、
なにものにも増して怖かったのである。
精神医学的には自己暗示の加わった死への予期不安と、
それをなんとか克服しようとする知的な解決への
とらわれとが葛藤を引きおこした状態で、
「死を迎える心」の共通した意識内容が
見られるといってよいであろう。(中略)
人間の心理のなかには変えられるものと
変えられないものとがある。
変えられるのは外界へ向かっての思考のみであって、
意識はもとより感覚、知覚、感情、意欲、意思、知能に
至るまで自分で精神内界(心)をコントロールできると思うのは
事実をよく見抜いていないからである。
さらに大きな誤認は知的な抽象的・論理的思考が精神内界を
支配しているように思いこんでいることである。
「心」とか「自分」とか「生きる意味」など、
なんの疑いもなく使っている言葉に論理が加わる時、
知らず知らずのうちに心や自分や生きる意味などを抽象化・論理化してしまい、
そのかぎり生き生きした本来の自己の存在が失われて、
どのように考えをめぐらしても真の実在はとりもどせない。
もともと知性は精神の外部機構、
すなわち外界に対する仕組みであって、
心の問題の解決の有力な手段ではありえないのである。
このように見て来ると、
きめられた心の持ち方などありえないことは明瞭で、
むしろ「きめられなさ」のほうが心の事実にぴったりである。
変化してやまない自分の心のなりゆきを合理的なとらえ方で
安定させようと工夫するのは、
全く心に対する知性の誤った使い方で、
いたずらに虚妄の自己を防衛的に構築して、
自らぬきさしならぬ状況に追いこむ結果となる。
死を迎える心もまた同様に、その準備が知的な合理性をもっていると、
大きな脱線を招きかねない。
心は外界と異なり、別種の論理の支配する世界である。(中略)
死を迎える不安も恐怖も、
とくに注意を願わねばならないのは、
それらは大脳の作用によってあらわれた現象であって、
それらの意識内容は決して「もの」ではないということである。
心の準備というと、とかくものに対する方策として工夫されやすく、
その工夫はことごとく意識内容に対する知的な加工に終始するから
真の解決にはなりえない。
心に理論武装は全く必要ではなく、
それどころか無条件降伏こそ事実に徹底する姿であって、
死の恐怖の克服など全然いらないのである。(中略)
あらゆる“とらわれからの解脱”こそ精神療法の目標でなければならない。
それは意外にも心から治すのではなく、
心や自分や生きる意味についての一切の答えを出すまえに、
いきなり、あるいはとりあえず、その場の必要さに従って仕事や
勉強に手をつけていく実生活にきわまるのである。
生と死が同時に解決されるのが日本仏教の優れた特性というが、
日本独自の森田療法でも、生死がそのまま主題性を喪失して治るのである。
著者 宇佐 晋一 木下 勇作『続あらがままの世界―宗教と森田療法の接点―』
発行所 東方出版株式会社
精神保健福祉士・介護福祉士
伊藤 大宜