自己意識の問題~森田理論
森田療法を実施していくうちに当然、自己意識が問題になる。
第一に自分のことは自分が一番よく知っているといっても、
見られている自分しか分からない。
また「我考う、故に我あり(我思う、故にわれあり)」といっても
実際に概念化して考えていること自体それをそのまま自分だと主張して
よいかどうかは、はなはだ疑問である。
第二に、日本語以外の外国語を苦心して援用しても
その表現には限界があり、いわく言い難しということになる。
第三に、言葉(分別)は固定する働きが強いものであるために
心の微妙に変化してやまない状態を捉えるには十分ではない。
第四に、抽象的・論理的思考にすぐ置き換えられてしまうため、
「これが自分だ」というのは生き生きした真の自己ではない。
したがって自分を思考の対象にするというのは自分を自分でないもの
として捉えてしまうことをまぬがれない。
第五に、自分を主観的に捉えるため客観性がない。
第六に、感情の影響のもとに自己暗示がはらいて、針小棒大に大げさに見てしまう。
そのどれ一つをとってみても意識内容として
自己は真の自己でありえない。
つまり自分で真の自己は捉えられないということである。
上記の観点からすると真の自己実現を妨げていたのは
「これが自分だ」という主観的虚構性であった。
仏教では虚妄分別という言葉が古くからあり、
これが自分だという限り
本当に自己の真の実在を見抜いたことになりえないのである。
精神保健福祉士・介護福祉士
伊藤大宜