日常生活に徹するところに光~森田理論
日常生活に徹するところに光
森田療法では跡形なく治るといわれているとおり、
とらわれをすっかり離れて日常生活に取り組んでいる方は
どなたも全治である。
けれどもそれを目標として揚げると、“そこに到達しなければならない自分”と
いうものが想定されて、
実現への達成努力が生活の努力より優先して行われることになる。
その熱心さが人一倍なのが森田神経質の特色で、
どこまでも自分の不十分さ、不完全さ、あるいは不満足さが残るわけだ。
そのため目標である「とらわれから離れること」が理想化され
、ますます要求水準が高くなり、
それとともに相対的に自己評価がだんだん低くなって、
目標への到達が不可能と感ずるようになり、
いたずらに見通しの暗い思いにひたることになる。
中国の唐の時代の寒山の作った詩の中に、
人里離れた生活をしている老人が、そよ風の中で古い本を読んでいて
「ここで暮らして何べん春と冬がくり返されたことだろう。
もうやって来た道さえも忘れてしまった」という情景が描かれている。
これは自分にまつわる歴史を忘れてしまった、
ということであると同時に、これまでの経験、
あるいは時間さえも忘れてしまったということでもある。(中略)
しかし一般には自分の名前が決して忘れられないように、
意識的に物事を忘れようとして忘れられるものではない。
忘却の現象は記憶の減退によることは勿論だが、
意識の明るい部分すなわち意識野から対象がはずれると忘れたのと同様になる。
これが気にならないという状態である。
毎日のあふれるばかりの情報も意識野の中に入ってくると
わずらわしいばかりに感じるが、
たいていは意識野から外へ出てしまって気にもとまらない。
それはその人にとってさし当たって取り組んでいる仕事や勉強、
あるいは関心事が今ある場合にそうなりやすく、
よほど現在進行中の仕事に関係のありそうなことだけが意識野に残り、
批判されて、記憶に取り込まれるのである。
それと同時に明るい意識の中に関連した事柄が記憶のなかから
再生されて浮かんで重なる。
それは自分にとって役立つこともあれば、
反対に邪魔なこともあるので、邪魔なことを忘れようとしる。
ところがここからが問題で、
自分の知的な意思によって自分の意識を都合よく塗り替えようとすると、
意識は思いどおりにいかず、消したいものが消えない。
そこで消そうとしたことが間違いだったとは思えないものだから、
さらに一生懸命消そうとするあまり逆に消したい考えが消えないばかりか
自分に強く迫ってくるように主観的に感ずるようになる。
これが強迫観念の成り立ちで、
雑念といわれるものから何々恐怖といわれるものに至るまで、
ことごとく自分の意識の中の観念の争いとなって結着のつかない様相を呈する。
その一番のもとのところは自分の意識を考えで調整しようとした
“ご都合主義”によるのであるが、それらは言葉で自分の心を描いたところに始まるといえる。
そこで意識は全く放置して、
いきなり目の前の仕事に手を出していくと、
自分についてのことは意識野の外に出て、
忘れようとせずに忘れることが瞬時にできる。
著者 宇佐 晋一/木下 勇作『あるがままの世界』
発行所 株式会社 秀和システム
精神保健福祉士・介護福祉士
伊藤 大宜